自己紹介

ダニエル・オスの日本語の自己紹介 


僕は子どもの頃から自転車に乗ってる
今でもはっきりと覚えているんだ。僕が1987年1月13日に生まれ、今も住んでいるトレント県ペルジーネ・バルスガーナの近くに続く山の中の小道で、父さんと一緒にマウンテンバイクに乗って、格闘していたときのことを。
ほんの少し行くと、素晴らしい景色に心を奪われるんだ。父さんにとっては、リラックス出来るときで僕にとっては、興奮するときだった。僕は本当に感動し、幸福だったんだ。こうして生まれた大きな情熱は、やがて大きな夢へと変わっていった。
でも、少しすると僕の家の近くの道は僕には十分ではなくなった。僕は別の所で自転車を走らせたくなったんだ。僕が自由だと感じるのはロードバイクだったんだ。こうして、ほとんど偶然にトレンティーノの最も重要なクラブの一つであるアウローラスポーツ連合を知ったんだ。

7歳の時、大きな転機の日がやってきた。僕の最初のホンモノのレースだ。興奮をかくしながらも、僕は神経質になっていた。不安と喜び。緊張と落ち着き。不思議な感じ。そしてそれはこの後100回感じたものだったろう。スタートはリベレド。僕の住んでいる地域の近くの街だ。最年少のカテゴリーだった。僕は家の近くの湖で父さんと一緒に自転車に乗っていたときのようにレースを楽しみながら、強くペダルを踏んだ。そして勝ったんだ。無限の喜びだよ。決して忘れることなんてできない。それから毎年続いて僕は注目を浴びることができたんだ。でもレースとチームスピリットのおかげで、特に新しい友人を得て、レースを楽しみ、このスポーツをますます愛するようになったんだ。

初級のカテゴリーを終えても、僕はレースを楽しみ続け勝利していた。合計すると、20勝ほど勝利を家に持ち帰っていたんだ。2000年には事実上、最初の重要なチャンスがやってきた。カテゴリーごとのイタリアナショナルロード選手権だ。トレントのものとは違ったホンモノのレースに立ち向かうのは、すごい刺激だった。
まさに、このことで、続く2年の間、練習生の中で視野を広げることにつながったんだ。

トレンティーノからトスカーナへ。いったんはジュニアのUsアウローラに属しフィレンツェのAsアクイラでより多くの経験を積むことを許された。それはとても重要な年月だった。情熱はより大きなものに変わり続けた。僕は代表の青いジャージをピスタでもロードでも数多く着て、ヨーロッパでは銅メダルを、そしてロスアンジェルスの世界ロードでは13位に入ったんだ。
夢は実現していた。父さんとマウンテンバイクで走っていたときから長いときが過ぎていた。でも、僕のスピリットはいつも同じだった。道を走っているときに出会うすばらしい人たちに感謝しながら喜びを感じ、よりよくなるためにペダルを踏むんだ。

こうして、高名なザルフ・デシーレ・フィオールのジャージを着てアマチュアの3年の間の歩みによって僕はもう一つの飛躍を遂げたんだ。
僕を育てたクラブは、レーサーとしてだけでなく、人間としても僕を成長させてくれた。この年月の中で、僕はたくさんのことを学び、忘れることのない喜びの思い出の中で過ごしたんだ。11回腕を上げてゴールを切り、8位に入賞したヴァレーゼのアンダー23世界選手権が飛躍の足場となったんだ。

さあ、やっと現在の話に到着だ。
僕のキャリアにとって、最も重要なできごと;それは世界的にも最も認められたプロツアーチーム、リクイガス(現リクイガスキャノンデール)とプロ契約を結んだことだ。とうとう夢が実現したんだ。でも、それはただスタートラインに立ったにすぎない。最初の年は、実際、限界と能力を知り、信頼を得るためのものだったんだ。昨シーズンは、すばらしい、驚きのシーズンだった。僕は重要な伝説的なレースに出場した。北のクラシックからツール・ド・フランスまで。準備をしたおかげで、僕は有力な順位を得ることができて、名を知られ、評価を受けることができたんだ。そして、ジロ・デル・ベネトでプロ初勝利がやってきた。土砂降りの雨の中だ。でも、天に手を突き上げてゴールを切った時は、まるで太陽が輝いているようだった。この勝利のおかげで、代表監督、パオロ・ベッティーニからオーストラリアの世界ロード選手権への招集を受けたんだ。無限の喜びで、誇るべき名誉なことだ。

今、新しいシーズンの新しい挑戦が始まろうとしている。目標はこんな感じに続いている。絶え間なく向上して、次々とレースに参戦していくことだ。僕はそのために苦労をしなくてはならないけど、恐れてはいない。もちろん、そのためには僕を信じ、思ってくれるみんなの支えが必要だ。
ぜひ僕のことをフォローし続けて欲しい。
そうして、僕はペダルを踏み続けるよ。